当サイトに関するご案内
こちらのブログでは「不可抗力」の原作の日本語訳を不定期で掲載していきます。
全32or33章の予定です。途中調整して前後するかと思います。
そしてこの作品は既に翻訳されている方が何名かいらっしゃるようなので、その中の一つとして見て頂ければと思います。
※原作には章題はありません。ただ数字だけの表示だと何章まで読んだのか、どの章がどんな内容なのか、読み返す際に分かりづらくなると思い、ブログ主が勝手につけています。
※ブログ主がはてなブログ無料版を使っており、無料版は広告が強制的に表示されます。ブログ主に一切の収益はありません。ご了承ください。
第4章:しばらくお待ちください…
第3章:明日引っ越して来い
「小念、お前まだケチケチしてるのか」
お風呂から出てきたその男は、ベッドで横になりながら、リモコンでテレビのチャンネルを変えつつ不満げに文句を垂れている。
先ほど食事をした際、謝炎はリビングの家具が何年前から使い続けているのかついに疑い始めていた。あのマホガニーのテーブルには謝炎が以前、ナイフで悪戯して彫った跡が未だに残っていた。それから家の中をざっと一周すると、やはり見覚えがある物がたくさんあった。こうしてこの家にある物の多くは謝炎が留学に行く前と変わっていないということが確認された。
「え?」
舒念は微笑んでいる。
「できると思う?だってこの家は隅から隅まで旦那様たちの考えで全部設(しつら)えらたんだよ」
「おい、頼むよ。一体何年前にデザインされたやつだ?まるで謝家がお前を酷い目に遭わせてるみたいじゃないか。明日にでも人を呼んで新調するか」
「必要ないよ。馴染みのある物の方が使いやすいんだ」
舒念は取り換えるのが惜しかった。謝炎が中国を発った時、舒念はすでに二十三歳になっていたし、落ち着いていて、分別がある人間だ。ところが謝炎を飛行機に見送った後、茫然として一体どうしたらいいのか分からなくなり、家に帰ると食事も睡眠も忘れて、謝炎がこの家に来た時に彼が一度座ったことのあるシングルソファーで一人、ボーッとしながら夜が明けるまで座っていたのだ。
恐らくその時からだろう。なんと大胆不敵にも謝炎のことが好きだと舒念はハッキリと確信したのだ。
「小念、男がそんなにケチケチしてたら、金の使い方も分からなくなって女の子の機嫌も取れなくなるぞ」
舒念はただ笑っている。
「でもまぁ、いいんだ。もともと小念は俺のものだ。だから俺を喜ばせる方法さえ知っていればそれでいい」
そう言い終えると謝炎は手招きをする。
「お利口さん、こっちに来て抱き締めさせてくれ」
全くもって身の毛がよだつ命令に聞こえる。
とはいえ、子供の頃はずっと名犬アリスの身代わりを務めたこともあり、この手の命令にも慣れていた。しかし、今はもう舒念は三十歳を目前にしている大人の男だ。
舒念が従順に謝炎の膝の上に横になろうものなら、全身が硬直してしまうのは火を見るよりも明らかだ。
「良くないよ……」
舒念は苦笑いしている。
「良くない?」
謝炎は眉を吊り上げながら不快感を表情に浮かべている。それを見た舒念は再認識させられる。あと何年経ったとしても、時代の寵児であるこのエリートお坊ちゃまは自分のことを大人の男としては見てくれるつもりはないようだ。
今の舒念が受けている待遇は、せいぜい「三十歳のアリス」か「十二歳のアリス」くらいの違いだ。
苦笑いしながらぎこちない恰好で横になる。今の自分の状況を頑張って想像しても、毛のフワフワした子犬にすぎなかった。いくら主人が親しげに優しく撫でても、そこにはあってはならない考えと反応が出てしまう。
案の定、謝炎はすぐに満足した様子で舒念の頭を胸に抱きかかえる。そしてテレビの画面を見ながら頭を撫でている。
「小念、お前の髪はなんてサラサラなんだ……肌だって……」
謝炎は肌触りの良いものがとても好きなのだ。舒念は小さい頃からこのような『寵愛』を受けていた為、彼に触られた程度では何も感じなくなっていた。額から顎にかけて全体的に数え切れないくらい揉まれていた。こういう理由で以前は舒念の顔が頻繁に腫れていた。
「あぁ、とても気持ちがいい……」
謝炎はすっかりご機嫌になり、興が乗って舒念のパジャマの襟の中に手を入れて首の辺りに悪戯し始める。
前回、こんなにも近距離で触れ合ったのは彼が留学に行く前の七年前だ。
舒念はなんとか努力して堪えようとしているのだが、次第に呼吸が少し不安定になり、耐え切れず顔を上げてそっと謝炎の顔を見てみると彼はテレビに夢中になっている様子だった。
非常に滑らかで優雅な線を引いたような額(ひたい)、その下には細長く真っ直ぐな眉をつけて、人差し指で薄い唇をそっと撫でている。細長い目を凝らしながら微かに細める謝炎の姿は容易に彼に対して邪(よこしま)な考えを抱かせてしまう。
哀れな舒念は謝炎の膝の上に横になって薄い布地を隔てて、下にある力強い筋肉の温もりを感じている。彼の身体にあるかどうかさえ定かではない清潔で温暖な味の香りすらはっきりと感じる。
彼の指が自分の背中を再び勝手気ままに摩ったり揉んだりしてくる。こんなことをあと少しでも続けられようものなら我慢などできないと心配し、その緊張あまり白目を向いてしまう。
心臓の鼓動が余りにも大きくなりすぎて、彼に気づかれないか心配になる。
必死に気持ちを落ち着かせるために自分の注意を他所へ逸らすしかない。可能な限り今の状況を考えないようにする。自分が枕にしているのは謝炎の男性トップモデルに匹敵する長い二本の足だ。何とか頭から湧いてくる邪な考えを抑え込もうと努力する。
謝炎がやっと番組を見終わり、睡魔に襲われる。そしてやっと舒念を触るのをやめて電気を消して横になる。ずっと極度の緊張状態の中、全身全霊で自分の動悸をコントロールしていた舒念はやっとホッとひと息つくことができた。しかしそんなのも束の間、すぐに後ろから抱きしめられて半分は身体の下に力がかかり、あと少しのところで全ての努力が無に帰すところだった。
「小念、明日引っ越して来い」
実にハッキリしている。命令語であって、相談の意志語「~どうだ?」の文字はどこにもない。
「え?でも旦那様たちはここに住めって、僕……」
謝烽夫妻は実際に舒念のことをずっと他人として扱っていた。そうでもしないと謝炎がいつまで経っても成長できず、彼以外の付き人はいらないと言って、使用人を追い出してしまう。
「そんなこと気にするな。俺が引っ越せって言ったんだ。もし聞かれたら、俺の意志だと答えろ」
謝炎は如何なる時でも誇り高く、それでいて自信に満ち溢れている。たとえ誰が相手でも彼の眼中には入らないのだ。
「うん……」
これからまた謝炎と四六時中会えると思うと舒念は興奮のあまり言葉に詰まってしまう。そしてしどろもどろに他人行儀なことを話す。
「もう僕たちは大人になったんだよ……だから本家に戻っても何も手伝ってあげられないよ……」
「別にお前は何もしなくていい。ただ俺に抱かれながら寝ていればいい」
謝炎はこんなことを至って真面目に話している。少しも冗談を言っているような様子ではなく、舒念はその場でただ呆然とする。
舒念が本家から引っ越す前、確かに謝炎は毎晩のように舒念を抱きながら寝ていたのだ。
当時、血の気が盛んな二人の男の子がお互い抱き合っていた。その時点でおかしなことである。
もうこうなったら謝お坊ちゃまは未だに大人に成長できておらず、童心が残ったままなのだと無理にでも解釈するしかない。
そして今に至っては……もう父親にすらなれるほどの二人の大人が未だに抱き合って寝ている……
怪しいか怪しくないかは別にしても、”過ち”が起きる可能性も充分あるのではないだろうか。
とはいえ、舒念から分不相応な考えを持ったことはない。それに謝炎の抱擁は本当に女の子が人形を抱くのと本質が変わらないということも分かっている。ただもし、これから毎日謝炎に抱かれればいつかは触れてしまうかも知れない。二つの……それが怖くて舒念は一晩中寝付けなくなる恐れだってある。
「俺は小念を抱いて寝るのが好きなんだ」
謝炎の広くて丈夫な胸と細長くて力強い腕が舒念を押し潰す勢いだ。
「こうやってお前を抱き締めていないと俺はちゃんと眠れないんだ…あぁ、小念、お前はすごく痩せてるな。抱き締めていると本当に気持ちがいい……」
舒念は戦々恐々としながら謝炎の懐に抱きかかえられたまま微動だにしない。 謝炎の静かな呼吸と鼓動を感じ、すぐにでも気絶してしまいそうな気分だった。
一秒、また一秒とゆっくり時間は進んでいくが、舒念は意外にも気絶することは無かった。ただ、ずっと同じ姿勢のままでいるため、腰が辛くなっていた。この熟睡している人のことを考えると仕方なく舒念はただ固まっているしか無かった。
背中の熱くて重い感覚は、こうして密着していると却(かえ)って現実味がない。
一体どれだけの時間が経ったのだろうか。カーテンから差し込む光が徐々に明るさを増してきたようだ。
どうやら本当に目を開けながら一晩過ごしてしまったようだ。
謝炎は相変わらず執念深く舒念を抱き締め続けている。姿勢を大きく変えることもなく、舒念の忍耐力には目を見張るものがある。
「謝炎?」
小さな声で呼びかけてみる。舒念はもう起きようと思っていた。劉さんはいないので舒念は先に起きて色々と準備をしなくてはならない。
しかし謝炎からの反応は全くない。今の彼は心底安心しきっており穏やかに眠っている。
舒念はそっと謝炎の腕を解こうとしたが、この男はまるで獲物を捕らえる人食い蜘蛛のように手足でしっかりと舒念の身体を締め付けて離さない。
もし物音を立てて起こそうものなら謝炎が不機嫌になってしまうだろう。それを恐れて舒念は息を殺しながら注意深く謝炎のほうに身体を向ける。そして一体どうすれば彼を最も穏やかに目覚めさせることができるか、方法を思案する。
謝炎の呼吸は規則的で落ち着いてる。そして非常に穏やかで安らかな寝顔だ。
尊大な額(ひたい)に幾筋かの髪が垂れ、目が覚めている時と違って心做(こころな)しか弱く見える。
長い睫毛(まつげ)―― 謝炎は本当にこの上なく綺麗な男性だ。唇を少し窄(すぼ)ませて、無邪気で満ち足りているこの角度。
舒念は不意に謝炎を起こしたくないと思い始めた。
このまま静かに自分のことを抱きながら寝ていればいいと思った。長ければ長いほどいい。このままずっと続けばいい。このままずっと起きることなく、そして自分も目を覚ます必要はない。
一生こんな夢を見続けることができたら、どれだけ良いことだろうか。
半身がまるで麻痺しているかのようだった。
自分の目と鼻の先にいる男性をただ静かに見つめてるだけで心臓の鼓動が速くなる。
彼は眠っている。
ーー”それ”はダメだよね…………良いかな…………
舒念は少し震えながらゆっくりと近づいていく。 胸腔を打つ心臓の音がこの静かな部屋に確かに響き渡り、その音で腰が引けてしまいそうだった。
やっとのことで勇気を出して彼の唇に指を伸ばしてそっと撫でる。
そして彼の唇の触れた指を少し震わせながら自分の唇に当てる。
まだ微かに温もりが残っている。謝炎の温度はとても温かい。
舒念はまさか自分がこんな贅沢な時間を過ごせるということが信じられなかった。
第2章:飢えた少爷
「小念、まだ終わらないのか?」
「あ、うん……」
舒念は少し狼狽えた様子で目の前の資料を整理している。
「もうすぐだよ……」
彼は絶対に仕事を怠けていたわけではないと誓えるのだが、謝炎の仕事効率から言わせると、舒念の今日の仕事ぶりはスピードと正確性に欠けていた。
「本当に遅いな」
謝炎は面倒くさそうな顔をしながら時計に目をやる。
「もう三十分も待っているんだ!飢え死にするぞ!」
舒念は苦笑いしている。謝炎からすればこんな仕事は取るに足らないのだが、残念ながら全ての人が謝炎のように優秀な頭脳を持っているわけではない。
特に舒念の場合、孤児院で過ごした十四年間は教育を受けていなかった。だからこそ舒念は他の人よりも何倍も時間を使って努力をし、教育の遅れを少しずつ取り戻していったのだ。
しかし、生まれつき特別な才能があるわけでもなく、むしろ人よりも覚えるスピードは遅い部類だ。
謝炎のような若くして各地を旅しながら学位を取った人と同列に扱うこと自体間違っている。
舒念が今、雑談でもして時間を無駄にしようものなら、お腹を空かせたリザードン(謝炎)が更に暴れることになる。
弁明の言葉を繕う勇気もなく、ただ一秒でも早く仕事を終えるために齷齪(あくせく)するしかなかった。
「謝炎、先に帰りなよ」
もう何度、仕事を間違えたか分からない。隣には謝炎が両腕を組んで座り、ジロジロと睨むように監視している。そのせいで舒念の動作はカチカチに硬くなってしまい、まるでロボコップのようだった。
「まだ時間が掛かるよ…だからもう待ってなくて大丈夫だよ」
「何?!」
謝炎の顔色が更に悪くなる。
「お前、俺を揶揄っているのか!」
「え?」
舒念は自分に罪はないと確信している。誰も彼に待っていてくれなど頼んでいないのだ。
「先に帰ったほうがいいんじゃない?だってほら、まだこんなに……」
「うるさい!俺はお前と一緒に夕食を食べたいんだ。早くしろ!」
「うん……」
舒念は口を閉じる。どうやら嫌々仕事を続けるしか選択肢は無いようだ。
「全く不器用だな、これじゃあ夜が明けてしまう…」
謝炎は隣でしばらく監督していたのだが、もう我慢が限界を迎える。
「手伝う。全部寄こせ」
仕事をしている時の謝炎からは、いつものニヤニヤした表情が無くなる。凛として触れることさえ憚られるような実直さで、細長い端正な眉を軽くねじり、薄い唇を厳粛に一直線にしていて、まさに英気迫る様子だ。
やはり本気になっている男は最も魅力的である。そんな謝炎が傍にいるせいで舒念は徐々に集中力を切らしてしまい、滅茶苦茶な仕事をしてはその都度、ゴジラのような表情の謝炎に平謝りを繰り返していた。
「小念、お前本当役に立たないな」
家に帰ると外は既に真っ暗になっていた。謝炎は鍋の底のように黒い顔をしている。
「お前は謝家として何年も働いてきたんだろ?なのになんで俺が留学に行った時から全く仕事が上達していない?」
舒念は少し遣り切れなくなる。謝炎の前でもっとマシな態度を取れるようになりたかった。
「もういい。腹が減った。劉(リュウ)さんは?なんで誰も夕飯の準備をしてないんだ?!」
「あっ!」
舒念はこの言葉を聞いてやっと、この家にいる唯一の年寄りの使用人が休暇を取っていることを思い出す。
「劉さんは休暇を取って娘を見てるはずだよ……ごめんね、すっかり忘れてて……」
謝炎にギロッと睨み付けられた舒念はとても後ろめたい気持ちになる。
「ごめんなさい……旦那様のところに帰るのはどうかな?あそこの厨房ならすぐに食事も用意できるし……」
謝炎は眉間に皺を寄せる。
「俺はお前が仕事を終わらせるのを長い時間待ったんだ。それなのに挙句、お前は俺を本家に追いやるのか?お前はこの俺が一体誰なのか忘れたのか?お前はマナーってやつがまだ分からないのか?!」
「うっ……」
謝炎が怒り出してしまった時はもう舒念にはどうしようもない。
「車でホテルまで送るよ……」
「俺は疲れているんだ」
謝炎の坊ちゃん気質がすぐに姿を現す。
ネクタイを引っ張りながら機嫌が悪そうにソファーに腰をかける。
「すぐ出前を注文するから……」
「そんな不潔な物、俺は食わない」
舒念はこうしてまた謝炎と会える日を長年待ちわびていたのだが、今は彼の気持ちがよく分からず、以前のように未熟でただ不安そうに立っている。
「じゃあ……もし待てるなら僕がすぐ作るよ」
今回の提案でようやく謝炎は異論を唱えず、舒念はホッとしている。コートを脱ぐ暇も無く、台所で冷蔵庫を開ける。幸いにもまだ幾つか材料があるので簡単な料理くらいは何とか作れそうだ。
スーツの上からエプロンを着けるのはさすがに少し変だと思ったが、しかしそんなことを気にしている暇などない。
鍋を持って慌ただしく炒め物を作りながら、頻りに時計を気にする。今の彼にとって、謝炎がリビングで腹を立てながら空腹状態で待っていること以上に罪の意識を感じるものはない。
「小念、まだできないのかぁ」
「すぐできるよ。もうちょっとだけ待ってて」
服の袖で汗を拭いながら、皿を取り出して、後は出来上がり次第盛り付けるだけという状態で待っている。
「腹減ったぞ……」
スラっとしたハンサムな若い男が牙を剥き出しにしている。薄気味悪い吸血鬼のような顔をして、背後から身をかがめて舒念に抱きつく。
「小念……」
「すぐ、すぐだから……待ってて」
歯ぎしりしたところで料理がすぐ出来上がるわけでもなく、早めに盛り付けて火の通りが充分でなければきっと謝炎はまた文句を言うに決まっている。
舒念はじっと鍋を見つめている。その間、謝炎は舒念の耳元に息を吹きかけたり、歯でカチカチと音を立てて邪魔している。心の中で焦りを焚きつけるモノの正体がやっと分かった。
「もういい、先に食べてやる」
「えっ?あと……あと一分で出来るから。ちょっと我慢して、うっ…」
耳たぶが突然ガブっと噛みつかれる。
突然のことに舒念は手元がグラついて危うく鍋をひっくり返すところだった。
「本当憎らしい…俺が腹を空かせているっていうのに、お前はまだ飯を食わせてくれない……飯がないなら人を食おう……先にお前から食ってやる」
耳たぶを歯で挟まれて痛痒くなる。しかし謝炎も舒念のことを揶揄う意味は全く無いことは分かっているはずだ。舒念は顔がずっと熱く火照っていて、手の制御もままならない様子だ。
背中には謝炎の大きくて丈夫な胸がピッタリとくっついている。腰に巻き付けられたその腕はほっそりとしていながらも非常に力強く、よく知った温度がじんわりと厚い布地越しに伝わってくる。舒念は少し眩暈がして呼吸が乱れ始めていく。
最初から最後まで何十秒だろうか、料理を鍋から皿に盛り付けると謝炎は歓喜の声を上げて、舒念を離して素早く皿を持ち上げる。そして舒念を台所に残して去っていく。
たった数十秒だけの出来事だ。
しかしそれだけで充分だった。
舒念はしばらく立ち尽くした後、また額の汗を拭う。そして鍋に再び油を注いで二皿目の準備に取り掛かる。
「んーっ!美味い~~」
まさに『民は食を以って天と為す(人にとって食は何より重要だ)』である。数分前まで殺気立った顔をしていた男が今は箸を持って目を細めながら顔に笑みを浮かべているのだ。
「やっぱり小念は流石だな、俺の好みを一番分かってる」
舒念が最後の料理を運んで、やっと時間ができたのでジャケットを脱ぐと不幸に見舞われる。スーツのジャケットに煤汚れが付いており、ドライクリーニング出す羽目になってしまったのだ。とりあえず椅子に腰をかけてひと息つく。疲れてきっており食欲もないため、飢えるようにエビの炒め物を口に放り込む謝炎の姿を黙って見つめる。
「小念、これ食えよ。口開けて!」
「え?」
舒念が反射的に口を開くとベーコンを一切れ放り込まれた。
「美味いだろ?」
謝炎はとてもニコニコしている。その表情は完全にペットの犬に餌を与えているものだった。
「うん……」
「夜食はオニバスとユリの薬膳スープを作ってくれ」
「え?今夜は……」
「ここに泊まる」
舒念が「うん」と返事をして、少し困った様子で箸を手に取る。緊張しているのか何も掴むことができない。
「長い間小念と一緒に寝ていなかったんだ」
「僕たちはもう大人になったんだよ」
舒念は無理矢理、笑顔を作る。
「後でリビングを片づけるから……」
「必要ない。俺は以前のようにお前を抱きながら寝るんだ」
舒念の鼻先から細かい汗が滲み出る。
「実は僕の使ってるベッドは寝心地が悪いんだ…だから寝言を言うかも……」
「冗談はやめろ」
謝炎はそう言ってテーブルの下から舒念に蹴りを入れる。
「早くシャワーを浴びて、綺麗になったら俺の世話をしろ!」
謝炎がお風呂に入っている間に舒念は大急ぎで自分の部屋の物を隅から隅までチェックする。そして普段は宝物のように目立つところに飾ってある謝炎が以前に使っていた様々な物を引き出しに全部まとめて押し込んで鍵をかける。
もしこれを謝炎に見られたら自分が幼い頃からこっそりと謝炎の物をコレクションしていたことがバレてしまい、自分が謝炎に対して抱いている感情が同性愛であると気づかれてしまう。
十数年間ずっと片想いしている謝炎に今後、二度と彼に会えなくなってしまう恐れだってある。
それに謝炎と同じベッドで寝れなくなってしまうのは言うまでもないのだ。
※『民は食を以って天と為す(民以食为天)』についての補足事項
これは中国のことわざで、「人にとって食は何より重要だ」という意味です。
中国は食事を非常に重んじる文化があり、それは挨拶にも表れています。
「元気ですか?(How are you?)」にあたる言葉で「ご飯は食べた?(吃饭了吗?)」という挨拶があり、これは本当に食事をとったのか心配しているから聞いているのではなく、「今日もちゃんとご飯を食べて元気にしてた?」というニュアンスを含みます。
こういった文化からこのことわざも生まれたのではないかと思います。
※下記のセリフの表現について
「早くシャワーを浴びて、綺麗になったら俺の世話をしろ!」の原文
”快去把自己洗干净来侍寝啦!”
”侍寝”は日本語にすると「夜伽(よとぎ)」で「一晩中傍で寄り添って相手の面倒を見ること」という意味なのですが、あまり耳馴染みのない言葉なので意訳をして後書きで解説することにしました。
孟瑞 ー プロフィール
※2020年5月20日現在
名前 :孟瑞(mèng ruì モン・ルイ)
生年月日:1988年12月26日(31歳)
出生地 :中国黒竜江省綏化市(こくりゅうこうしょう すいかし)
身長 :181cm
体重 :65kg
愛称 :中国-少爷(shǎo yé シャオイェ)
日本-ルイ
孟瑞は幼い頃から美術の勉強に励み、高校時代は黑土明珠(=優秀な人材を育てる土壌)という異名を持つ名門校『綏化市第二中学校』で学んだ。
大学入試の際、友人とともに貴州大学(Guizhou University)に演劇部の受験に挑む。
その際、友人は最終的の落ちてしまったが、孟瑞は首席で合格する。
そして故郷を離れて貴州大学で学習を始めた。二年間学んだ後、北京電影学院(演劇・美術関係の一流大学)で演技を学ぶ。
(※貴洲大学(贵州大学艺术学院)は 貴洲省唯一の総合芸術専門学校として長い歴史を持っている。教員・設備共にレベルが高く、そんな学校の演劇部に首席合格しているのだから彼の技術・才能は若い頃から光っていたのだろう)
(※北京電影学院は芸能関係の大学でBIG3と言われており、入試倍率は100~200倍の最難関。日本に例えると宝塚音楽学校や劇団四季などに合格するのと同等、あるいはそれ以上に難関だと推察されます。)
在学中、「五月の花全国大学生文芸演出司会大会」で優勝、「貴州省第一回専門演劇コンクール」の演劇部門二等賞を受賞した。
北京電影学院を卒業した後、孟瑞は貴州テレビ局に就職した。
《美食娱乐面对面》のロケ司会、映画総合番組《怀旧剧场》の司会などを務めた。
2007年、張新武監督の革命戦争映画《马石山十勇士》にで出演。日本の警察役を演じる。これは初の映画出演であり、正式に芸能界デビューを果たす。
2008年、胡庶監督のコメディ《男左女右梆梆梆》に出演し、明るくユーモラスな王振霆役を演じる。これがドラマ初主演作品である。
(上記映画・ドラマの映像や画像は見つかりませんでした)
2016年、ネット映画「不可抗力」で謝炎役で出演。劇中主題歌「不可抗力」の歌唱をこなす。
2017年6月21日個人事務所を設立。
王博文 ー プロフィール
※2020年5月19日現在
名前 :王博文(wáng Bówén ワン・ボーウェン)
生年月日:1994年5月18日(26歳)
出生地 :中国遼寧省瀋陽市(りょうねいしょう しんようし)
身長 :183cm
体重 :61kg
愛称 :中国-小白(Xiǎo bái シャオバイ)
日本-ぼぅちゃん
6歳から父親の意向で卓球の本格的な訓練を受けてその才能を発揮し、11歳で国家一級卓球選手になる。しかし、王博文は父の指導があるから練習していただけで、本当は卓球は好きではなく、彼自身は子供の頃から歌が好きだったのだ。
しかし、好きではなかったが卓球での才能が大きく開花し、卓球の国家チームにも選出された。
少爷(ルイ)が小白(ぼぅちゃん)を卓球接待する微笑ましい動画 - Youtube
≪快楽男声≫(中国のタレント発掘オーディション番組)の存在を知り、19歳の時に応募する。2010年に全国63位、2013年に再度挑戦し北京地区11位、全国30位を獲得した。この時プロによる指導はなく、彼自身のポテンシャルだけでこの順位を獲得したのであった。
彼がこのように卓球や音楽で才能を発揮できたのは両親の影響もあった。
王博文の父はかつて卓球選手で、母はかつて文芸女青年(映画や音楽が好き)だったのだ。
2013年 19歳で卓球選手を引退し、同年9月12日「这个夏天」初シングル発売。同年9月13日に写真集「十九岁的变奏曲」を発売。
2014年3月「我的23岁」で俳優デビュー。
2016年、ネット映画「不可抗力」で舒念役で出演。劇中挿入歌「梦(夢)」の作詞・作曲・歌唱をこなす。
2017年6月21日個人事務所を設立。
2020年5月17日ソニーグループに加入したことを発表。
第1章:出会いと再会
一つは家庭が裕福な御曹司
―――謝炎(シエ・イエン)
一つは子供の時に謝家に養子として引き取られた孤児
―――舒念(シュー・ニエン)
気づけばいつの間にか舒念は謝炎に恋に落ちていた。
強情な謝炎は舒念の気持ちを受け入れることができるのだろうか。
舒念は謝炎と初めて会った時のことを忘れることは一度も無かった。
その日はとても天気が良く、太陽が燦燦と輝いていた。舒念は庭の隅っこでしゃがみ込んで、少し古くなった絵本を読んでいた。
実のところ、舒念はこの絵本を既に何度も読んでいたのだ。そして彼は全てのページにある模様や物語を、目を閉じるだけで頭の中にはっきりと、まるでその場所にいるかのように思い浮かべることができた。
しかし、舒念は飽きることなくこの絵本を興味津々な様子で読み耽っていた。それはこの絵本が彼の持っているただ一つの絵本だからなのかもしれない。
施設内にいる他の女の子たちと同じように、舒念もまた絵本に登場するような素敵な王子様に一番の憧れを抱いていた。
背の高い白馬に乗ったその王子様はハンサムな顔立ちで綺麗な服を着こなしている。そして威風堂々と剣を構え、たった一本の剣でドラゴンを倒し、城からお姫様を救い出す。
舒念はそのページを気に入って何度も繰り返して眺めていた。羨ましくて仕方がなかったのだ。
舒念もお姫様のように、物語の最後に書かれている結末を待望している。
”そして幸せな日々を送るのでした―――”
舒念はもう十二歳になる。しかし見た目は小さく幼くて、十歳すら迎えていないように見える。彼はとても痩せ細っており、立っていることさえ危ういような見た目だ。
舒念が育ってきた施設『幸福福祉院』
世界中、どこの孤児院も自分の名前を正直につけるようなことはしない。
『孤児院』
事実と全く異なるような名前なんて本来使うべきではないのに。
『幸福』 『ハート』 『天使』 『慈愛』
この施設だって他と変わらない。
残念ながら今の舒念には何と書いてあるのか読むことが出来ない。
『幸福』
ーーどんな意味なんだろう?
もちろん、この場所が楽しくないかと言われたら、そういうわけでもない。
例をあげるとすれば、テレビや雑誌の記者が取材に来るときなんかはしばらく新しい服を着ることができるのだ。
それ以外にもクリスマスイブの夕食にはいつもより多めに出された豚肉の美味しそうな香り。
それと…………ほかには何もない。
この施設にいる子供たちの一番の夢は養子として引き取られることだ。
たとえ引き取られる先がお金持ちだろうが、そうでなかろうが、ホンモノでないにしても一番重要なのは”両親がいること”なのだ。
舒念にはそんなことを想像する勇気すらなかった。彼は綺麗でもなければ頭が良いわけでもない。知らない人の前では人見知りしてしまい、ひたすらボーっとしてしまうのだ。そんな彼を選ぶ人は一人もいなかったのだ。
そんな性格ゆえ、シスターのおばあちゃんに名前を呼ばれた時は、彼はいつもしばらく経ってからやっと反応していた。
「おまえ。こっちに来い」
突然名前を呼ばれ、舒念は宝物である大事な絵本を後ろに隠す。舒念に向かって手を振っている少年は豪華な衣服を身に纏っており、それを見て舒念は思わず萎縮してしまう。
その少年は非常に整った端正な顔立ちをしており、白い歯で笑って見せた。
舒念にはそんな彼の笑顔がまるで夕方の太陽の光の中で輝く水晶のように見えた。
まるで王子様が本の中から飛び出してきたかのような見た目のその少年は遠慮することなく舒念の肩に手をかけてきた。もう一方の手で舒念の顔をおもちゃを握るかのように掴んできた。
「へぇ…かわいいな!」
そう言って少年は舒念の髪の毛を撫でる。
「マミー!アリスよりずっと触り心地がいいや!」
舒念は頻りに顔を引っ張られてとても痛かったのだが、彼には泣く勇気もなく、ただ拳を握ることしかできない。
「小炎…どうして人と犬を比べるの。そんな失礼なことしてはいけませんよ!」と母親が小声で謝炎を叱りつける。
「おまえ、女の子なのか?」
舒念が首を横に振る。
「ボクは男の子……」
「ちぇっ、男の子か」
その少年はがっかりとした様子で舒念から手を離す。しかしもう一度舒念の目を見て再び彼の顔を摘まみ始めた。
「なんでだ?女の子の顔だろ?どうして男の子なんだ?嘘つくな!ホントのことを言え!」
顔を引っ張る力は非常に強く、我慢できずに涙が出そうになる。
「おい、泣きたいか?」
舒念はそれでも黙って唇を噛み締めている。シスターはお金持ちのお客さんの前で泣いてはいけないと彼に教えた。もしそれを守らなければ罰として夕飯を抜きにされてしまう。
「おい、泣けよ。おまえが泣くところ、見せろ」
顔を抓る力がさらに強くなる。そして意地悪で抓っている指をそのまま上下に揺らす。
「おまえが泣けばつねるのをやめる」
舒念の目にはすでに涙が浮かべていたが、それを流すまいとなんとか耐えている。
「なんで言うことを聞かない!泣け!早く泣け!!」
「小炎、騒がないで。その子が言うことを聞かないのならもう他の子にしなさい。あまり困らせないで」
「謝さん、舒念はまだ小さいから分からないんです」
シスターのおばあちゃんが笑いながら仲裁に入る。
「他の子も良かったら見ていってください。もっといい子もいますから…」
「やだ。こいつがいい」
謝炎は執拗に頬を抓り続ける。舒念の顔にはすでにアザが浮かんでいた。
「早く泣け!泣いたら手を離す!」
舒念は夕食のことなどすでに忘れていた。ただこの少年の軽蔑と見下した態度に対抗して必死に歯を食いしばり絶対に泣いてたまるかと耐えているのだ。
「手を離しなさい。小炎」
「謝お坊ちゃん…」
何分かこのやり取りが続き、舒念はずっと我慢していたが堪えきれず涙が零れ落ちた。
「よし!」
謝炎はとても満足した様子で一息ついて手を叩いた。
「早く泣けばよかったのに。マミー、こいつにする。連れて帰る。こいつと遊びたい」
舒念は謝炎の言葉を聞いて驚きのあまり目を見開く。
「なぁ、名前は?おまえを連れて帰る。今からおれがおまえの主人だ」
謝炎はそう言って舒念の頭を撫でて、振り返って着飾った若い女性を見る。
「マミー、いいでしょ?」
「もう、連れて帰るのは私でしょう」
その女性は苦笑いする。
「彼はあなたの本を読む相手なのよ。アリスとは違うんだから、乱暴に扱ってはダメですからね」
「どうせこいつ、もうおれのものだ」
そういいながら口を尖らせる謝炎の様子は本当に天使のようだった。話している内容は別だが。
「こいつはおれに従わないといけない。もし逆らったら罰を与えるからな」
それを聞いた舒念は本能的に後退りしてシスターの後ろに隠れる。
「おい、こっち来い。おれはおまえを連れて帰るんだ」
それから謝炎は舒念を誘い出す。
「これからおまえはここを離れるんだ。おれたちは大きな家に住んでいるんだぞ。庭もあるぞ」
しかし舒念は口をすぼめて怯えながら首を横に振る。
「話聞けよ!」
謝炎は牙をむいて舒念のことを捕まえて彼の尖った小さな口を掴む。
「覚えるんだ。これからおれが主人だ。素直に命令に従え。そしたらおまえのこと大切にしてやる」
「とても大事にしてやるからな」
これは舒念が聞いた中でも、一番感動的で魅力的な約束だったのかもしれない。
それから舒念は簡単に荷物を包み、それを背負う。中には大事に巻き付けられた絵本もある。
すると小さな施設の仲間の甲高い叫び声が後ろの方から聞こえてくる。
「舒念、あなたダマされて売られちゃうのよ!」
舒念が謝家の正門に着いた瞬間、彼の想像を超えたその屋敷の豪華さは、彼の脳の容量を優に超えており、彼の持つ語彙ではそれを言葉で表現するにはまだ到底足りることがなかった。
正確に言葉で表現することができず、舒念はただ心の中でひたすらに同じ言葉を繰り返す。
ーーすごく大きい…とてもキレイ……
舒念は居間にある大きくて背の低いソファーに腰を掛けている。舒念の目の前には透き通った水晶のボウルがあり、その中にはワシントン産のリンゴとカリフォルニア産のブドウが入っている。舒念は興味津々でそれらを眺めている。こんなにも綺麗なものは食べたことはおろか、見たことすらなかった。
謝炎がそんな彼の様子を見てリンゴを手に取り舒念に食べろと合図する。しかし舒念は何やら慌てている様子だ。
「…切らなくていいの?」
「んっ?」
「その…八個に切り分けないの…?」
舒念は謝炎の顔色を気にしながら怯えた様子で見ながら話し続ける。
「全部…ボクが食べてもいいの?」
謝炎は舒念の言っている意味が分からず、しばらく固まる。しばらくしてからやっと口を開く。
「あぁ、もちろん全部おまえのだ」
謝炎はそれから考え事をする。そして果物の入った水晶のボウルを持ち上げて舒念の膝の上に置く。
「これも全部おまえのだ。全部食べていいぞ。無くなったらまた持ってきてやる」
「本当?」
舒念は肩を縮めている。もうすっかり顔に大きなアザができた理由など忘れていた。頭を上げて感激した様子で、まるで真っ黒な小動物のような目で謝炎のことを見つめる。
「キミってホント良い人なんだね」
「ん?ハハッ…もちろんだ」
謝炎は誇らしげな態度をとっている。なぜか分からないが、舒念に褒められるととても良い気分がした。
この痩せ細ったひ弱な舒念を見ているとどうしてもいじめたくなってくる。どうしてか舒念のことが放っておけず、可愛くてたまらないのだ。
「美味しいか?」
「うん、美味しいよ」
舒念は小さい口でちょっとずつかじりながら緊張した様子で頷く。
ーーわー、なんて可愛いんだ!
謝炎は堪えきれず舒念の柔らかな茶色の頭の上に手を伸ばす。
ーーアリスみたいだ…あ、でもアリスよりもっとずっと可愛いな、抱きしめたい…
そう思った瞬間、謝炎の体が反射的に動いていた。舒念の洗ったばかりの石鹸の匂いがする痩せた体に飛びつく。ぐっと強く抱きしめて満足そうに舒念の顔にキスをする。
「おまえがちゃんといい子にしてれば、おまえが欲しいものは全部、おれがあげるからな」
「えっと…………」
舒念はシスターのおばあちゃんが”食べ物をくれた人にはちゃんと感謝するように”と言っていたことを思い出す。そして感謝の意を示すように素直に頷いた。
その日から舒念は謝家の一員となった。実際には謝烽夫妻に引き取られた養子で、事実上、昔で言うところの金持ちの家の付き人だ。或いは使用人、もう少し年が上で運が良ければ執事だったかもしれない。
もちろん謝炎にとってはもっと簡単なものだ。
舒念は不幸にも捕まってしまった犬のアリスの身代わりなのだ。主な仕事は謝家の御曹司の遊び相手だ。安全に炎お坊ちゃまの退屈な時間を潰す相手をすること。
謝炎の機嫌が良い時は舒念の頭を撫でてご褒美を腕いっぱいに与えた。機嫌を損ねてしまった時には抱き枕を使って舒念のお尻を強く叩いた。舒念のことを床に押さえつけて酷く叱りつけて、舒念が顔をそらしてワアワアと鳴き声を上げたら謝炎はやっと手を離した。
舒念な王子様に会うことはできなかったが、代わりに変わった飼い主を得たのだ。
この飼い主は性格が良いわけではなく、時に横暴で何かあればすぐ暴れ出すこともあった。しかし幸いにも顔を引っ張ること以上の暴力的なことをすることは無かった。
そして年を取った今、謝家の中で舒念の顔を指で引っ張る者は誰一人いない。
ベッドで寝ていると目覚まし時計が鳴る。舒念はうとうとしながら手を伸ばして目覚ましを止める。そして本能的に自分の顔を撫でる。
幸いにも舒念の頬は腫れていなかった。やはり夢を見ていただけのようだ。
子供の頃、謝炎に花柄の模様ができるまで頬を抓られたため、彼にとっては大きなトラウマになっていた。
舒念はもう三十歳になろうとしている。しかし恥ずかしいことに謝炎の指に対して未だに恐怖心を抱いているのだ。
どうやら今日、あの男がイギリスから帰ってくるということで、条件反射のように子供の頃の夢を見たようだ。
ーー何年振りかな。会わないうちに彼はどう変わったんだろう…
舒念はボーッとしながら服を着てベッドから降りる。
今日は旦那様と奥様が坊ちゃんを迎えに行く予定になっていて、彼は謝炎をお迎えには行けず、会社に出勤するしかなかった。謝家の中ではまだ身分の違いがあるのだ。
舒念が今住んでいる家ですら謝烽夫妻の本家からは離れている。
顔を洗ってスーツに着替える。まだ眠りから覚めやらぬ中、ぼんやりとしながら洗面所から出る。そして階段を途中まで降りたところで下の階から騒がしい物音と話し声が聞こえてきた。
ーーこんな朝早くにロビーでは何を騒いでいるんだろう?
「舒坊ちゃん!謝坊ちゃんが帰って来られましたよ!」
「えっ?」
全く予期していなかったこの事態に脳の処理が追い付かなくなって思わず固まる。そして舒念に向かって飛んできた謎の物体の急襲により、舒念は数歩後退してうつ伏せの状態で床に倒れる。
「小念~~~~~~~~~~~~~~会いたかったぞ~!」
舒念は背筋がゾクゾクとする。なんとか大きく目を開いて飛んできた”物”の正体を確かめようとする。うーん、違う。飛んできた”人”の顔はあまりに近く、はっきりと見える。
「謝炎なの…?」
「当たり前だ、俺に決まってるだろ?」
ーーうぅ…すごく胃が…気持ち悪い……
舒念身体にへばりついた”タコ”を苦笑いしながら引きはがす。
「…空港で迎えを待っていなくていいの?」
「お前に一番に会いたかったんだ。タクシーを待つ時間さえ惜しかった。だから自分でバスに乗ったんだぞ~。それで飛行機も一便早いのに変えたんだが、お前たちに知らせるのをうっかり忘れていた。だって待ち切れるわけないだろ。全部お前に会いたかったからだぞ……小念、俺に会いたかったか?言え、答えろ!」
舒念はまたひどく冷や汗をかき始めた。
謝炎は前に比べて少し背が伸びており、舒念よりも少し背が高くなっていた。
彼は以前よりも背が高くなり、さらにハンサムになって、すっかりと垢抜けた様子で真っ直ぐしっかりと立っている。
謝炎はあと数か月で二十五歳になるというのに依然として舒念に甘えている。
「旦那様も謝炎を見たらきっと喜ぶよ」
「おかしい。お前はなんでちっとも嬉しそうにしないんだ?」
「も、もちろん嬉しいに決まってるじゃないか!」
「そうは見えないな……」
謝炎はまだ口を尖らせている。
舒念はもちろん喜んでいた。しかし嬉しさのあまりどんな顔をして、どんなことを謝炎に言えば良いのか彼には分からなかった。
それに舒念は子供の頃から口下手でもともと大人しい性格だ。大きな声で笑ったり叫んだりするようなタイプではない。
今、舒念の心臓は謝炎にしっかりと握られており、飛び跳ねながら破裂してしまいそうだった。
そんな状態では静かに微笑むくらいに表情を作るのが限界だ。
「小念、お前に話したいことがあるんだ。向こうでな…………」
謝炎は長い間イギリスにおり、中国語を話すことが出来なかった為、やっとこの機会にと饒舌に話し始めた。
座って使用人にお茶を淹れさせる。そして使用人が謝烽夫妻に謝炎の帰宅を知らせるまでの間、舒念のことを掴みながら延々と土産話を語りだした。
謝炎との距離が近すぎた為、舒念は顔が涎でいっぱいになりそうだった。
「…何?」
「バスに乗って帰ってくるときに指を捻ったんだ……」
「えぇ!?」
帰ってきたばかりだというのに、謝炎の暴力的な面が現れる。
ーー今まで何も表情に出さなかったのに、本当は指を怪我してたの!?
舒念は自分を掴む謝炎の腕を怯えた表情で身体を引いて離す。
「何があったの…?財布でも盗まれそうになったの?」
謝炎は細い眉に皺を寄せて、露骨に嫌悪感を表情に浮かべながら歯をむき出しにする。
「俺のことをこっそりと触ってきたんだよ!チェッ、クソ変態が……」
「触ってきた……」
舒念は少しポカーンとする。
「そうだよ。バスの混雑した中で俺の尻をこっそり触ってきたんだ。だからその”女”の指を掴んで力を入れたら骨がパンって鳴ったんだ……そいつは痛すぎて叫びもしなかったよ」
この男の精神力は生まれつきで以前と全く変わっていなかった。
舒念少し苦笑いをしながら話す。
「さすがにそこまでしなくてもいいんじゃない?確かに酷いことをしたけど、その人は女の子なんだから……」
「なんだよ、そいつは”男”だぞ。禿げたスケベジジィだ。小念、お前が同性愛なんて知ってるわけないだろ?」
「え、同……」
舒念は少し揺れて固まる。しかし、しばらくしてなんとか微笑む。
「分かるよ。今どきは別に珍しいことでもないし」
「本当に変態だろ、ゲイなんて大嫌いだ」
謝炎は眉により皺を寄せる。
「男と男だぞ?病気だろ!セックスの時なんか吐き気がするだろ?……悪い…………食欲が無くなった……」
「いいから少しは食べようよ。これ、謝炎のために一か月塩漬けして作ったんだよ」
舒念は繊細な模様の入った皿を謝炎の前に動かして眼鏡を落ちているわけでもないのに指で支える。
「先に食べててくれ。俺は荷物を上に運んでくる」
心の中ではとっくに分かりきっていたのだが、彼の話を直接聞いて確信した。そっと抱いていた幸せな希望はどうやら滑稽で哀れなものであったのだ。
※舒念が”男”を”女”と聞き間違えた理由について
中国語で「彼(He)、彼女(She)」にあたる言葉は「他(tā)、她(tā)」で声調(中国語は声のトーンで意味が変わる)も全く一緒で、音では区別がつきません。
なので、痴漢をされたと聞いた時、まさか同性からされたとは思わず、女性からされたのだと最初に思ったのです。