第1章:出会いと再会

一つは家庭が裕福な御曹司

―――謝炎(シエ・イエン)

 

一つは子供の時に謝家に養子として引き取られた孤児

―――舒念(シュー・ニエン)

 

気づけばいつの間にか舒念は謝炎に恋に落ちていた。

 

強情な謝炎は舒念の気持ちを受け入れることができるのだろうか。

 

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舒念は謝炎と初めて会った時のことを忘れることは一度も無かった。

その日はとても天気が良く、太陽が燦燦と輝いていた。舒念は庭の隅っこでしゃがみ込んで、少し古くなった絵本を読んでいた。

実のところ、舒念はこの絵本を既に何度も読んでいたのだ。そして彼は全てのページにある模様や物語を、目を閉じるだけで頭の中にはっきりと、まるでその場所にいるかのように思い浮かべることができた。

しかし、舒念は飽きることなくこの絵本を興味津々な様子で読み耽っていた。それはこの絵本が彼の持っているただ一つの絵本だからなのかもしれない。

施設内にいる他の女の子たちと同じように、舒念もまた絵本に登場するような素敵な王子様に一番の憧れを抱いていた。

背の高い白馬に乗ったその王子様はハンサムな顔立ちで綺麗な服を着こなしている。そして威風堂々と剣を構え、たった一本の剣でドラゴンを倒し、城からお姫様を救い出す。

舒念はそのページを気に入って何度も繰り返して眺めていた。羨ましくて仕方がなかったのだ。

舒念もお姫様のように、物語の最後に書かれている結末を待望している。

”そして幸せな日々を送るのでした―――”

 

 

舒念はもう十二歳になる。しかし見た目は小さく幼くて、十歳すら迎えていないように見える。彼はとても痩せ細っており、立っていることさえ危ういような見た目だ。

舒念が育ってきた施設『幸福福祉院』

世界中、どこの孤児院も自分の名前を正直につけるようなことはしない。

『孤児院』

事実と全く異なるような名前なんて本来使うべきではないのに。

『幸福』 『ハート』 『天使』 『慈愛』

この施設だって他と変わらない。

残念ながら今の舒念には何と書いてあるのか読むことが出来ない。

『幸福』

ーーどんな意味なんだろう?

もちろん、この場所が楽しくないかと言われたら、そういうわけでもない。

例をあげるとすれば、テレビや雑誌の記者が取材に来るときなんかはしばらく新しい服を着ることができるのだ。

それ以外にもクリスマスイブの夕食にはいつもより多めに出された豚肉の美味しそうな香り。

それと…………ほかには何もない。

この施設にいる子供たちの一番の夢は養子として引き取られることだ。

たとえ引き取られる先がお金持ちだろうが、そうでなかろうが、ホンモノでないにしても一番重要なのは”両親がいること”なのだ。

舒念にはそんなことを想像する勇気すらなかった。彼は綺麗でもなければ頭が良いわけでもない。知らない人の前では人見知りしてしまい、ひたすらボーっとしてしまうのだ。そんな彼を選ぶ人は一人もいなかったのだ。

そんな性格ゆえ、シスターのおばあちゃんに名前を呼ばれた時は、彼はいつもしばらく経ってからやっと反応していた。

 

「おまえ。こっちに来い」

突然名前を呼ばれ、舒念は宝物である大事な絵本を後ろに隠す。舒念に向かって手を振っている少年は豪華な衣服を身に纏っており、それを見て舒念は思わず萎縮してしまう。

その少年は非常に整った端正な顔立ちをしており、白い歯で笑って見せた。

舒念にはそんな彼の笑顔がまるで夕方の太陽の光の中で輝く水晶のように見えた。

まるで王子様が本の中から飛び出してきたかのような見た目のその少年は遠慮することなく舒念の肩に手をかけてきた。もう一方の手で舒念の顔をおもちゃを握るかのように掴んできた。

「へぇ…かわいいな!」

そう言って少年は舒念の髪の毛を撫でる。

「マミー!アリスよりずっと触り心地がいいや!」

舒念は頻りに顔を引っ張られてとても痛かったのだが、彼には泣く勇気もなく、ただ拳を握ることしかできない。

「小炎…どうして人と犬を比べるの。そんな失礼なことしてはいけませんよ!」と母親が小声で謝炎を叱りつける。

「おまえ、女の子なのか?」

舒念が首を横に振る。

「ボクは男の子……」

「ちぇっ、男の子か」

その少年はがっかりとした様子で舒念から手を離す。しかしもう一度舒念の目を見て再び彼の顔を摘まみ始めた。

「なんでだ?女の子の顔だろ?どうして男の子なんだ?嘘つくな!ホントのことを言え!」

顔を引っ張る力は非常に強く、我慢できずに涙が出そうになる。

「おい、泣きたいか?」

舒念はそれでも黙って唇を噛み締めている。シスターはお金持ちのお客さんの前で泣いてはいけないと彼に教えた。もしそれを守らなければ罰として夕飯を抜きにされてしまう。

「おい、泣けよ。おまえが泣くところ、見せろ」

顔を抓る力がさらに強くなる。そして意地悪で抓っている指をそのまま上下に揺らす。

「おまえが泣けばつねるのをやめる」

舒念の目にはすでに涙が浮かべていたが、それを流すまいとなんとか耐えている。

「なんで言うことを聞かない!泣け!早く泣け!!」

「小炎、騒がないで。その子が言うことを聞かないのならもう他の子にしなさい。あまり困らせないで」

「謝さん、舒念はまだ小さいから分からないんです」

シスターのおばあちゃんが笑いながら仲裁に入る。

「他の子も良かったら見ていってください。もっといい子もいますから…」

「やだ。こいつがいい」

謝炎は執拗に頬を抓り続ける。舒念の顔にはすでにアザが浮かんでいた。

「早く泣け!泣いたら手を離す!」

舒念は夕食のことなどすでに忘れていた。ただこの少年の軽蔑と見下した態度に対抗して必死に歯を食いしばり絶対に泣いたまるかと耐えているのだ。

「手を離しなさい。小炎」

「謝お坊ちゃん…」

何分かこのやり取りが続き、舒念はずっと我慢していたが堪えきれず涙が零れ落ちた。

「よし!」

謝炎はとても満足した様子で一息ついて手を叩いた。

「早く泣けばよかったのに。マミー、こいつにする。連れて帰る。こいつと遊びたい」

舒念は謝炎の言葉を聞いて驚きのあまり目を見開く。

「なぁ、名前は?おまえを連れて帰る。今からおれがおまえの主人だ」

謝炎はそう言って舒念の頭を撫でて、振り返って着飾った若女性を見る。

「マミー、いいでしょ?」

「もう、連れて帰るのは私でしょう」

その女性は苦笑いする。

「彼はあなたの本を読む相手なのよ。アリスとは違うんだから、乱暴に扱ってはダメですからね」

「どうせこいつ、もうおれのものだ」

そういいながら口を尖らせる謝炎の様子は本当に天使のようだった。話している内容は別だが。

「こいつはおれに従わないといけない。もし逆らったら罰を与えるからな」

それを聞いた舒念は本能的に後退りしてシスターの後ろに隠れる。

「おい、こっち来い。おれはおまえを連れて帰るんだ」

それから謝炎は舒念を誘い出す。

「これからおまえはここを離れるんだ。おれたちは大きな家に住んでいるんだぞ。庭もあるぞ」

しかし舒念は口をすぼめて怯えながら首を横に振る。

「話聞けよ!」

謝炎は牙をむいて舒念のことを捕まえて彼の尖った小さな口を掴む。

「覚えるんだ。これからおれが主人だ。素直に命令に従え。そしたらおまえのこと大切にしてやる」

「とても大事にしてやるからな」

これは舒念が聞いた中でも、一番感動的で魅力的な約束だったのかもしれない。

 

それから舒念は簡単に荷物を包み、それを背負う。中には大事に巻き付けられた絵本もある。

すると小さな施設の仲間の甲高い叫び声が後ろの方から聞こえてくる。

「舒念、あなたダマされて売られちゃうのよ!」

 

 

舒念が謝家の正門に着いた瞬間、彼の想像を超えたその屋敷の豪華さは、彼の脳の容量を優に超えており、彼の持つ語彙ではそれを言葉で表現するにはまだ到底足りることがなかった。

正確に言葉で表現することができず、舒念はただ心の中でひたすらに同じ言葉を繰り返す。

ーーすごく大きい…とてもキレイ……

 

 

舒念は居間にある大きくて背の低いソファーに腰を掛けている。舒念の目の前には透き通った水晶のボウルがあり、その中にはワシントン産のリンゴとカリフォルニア産のブドウが入っている。舒念は興味津々でそれらを眺めている。こんなにも綺麗なものは食べたことはおろか、見たことすらなかった。

謝炎がそんな彼の様子を見てリンゴを手に取り舒念に食べろと合図する。しかし舒念は何やら慌てている様子だ。

「…切らなくていいの?」

「んっ?」

「その…八個に切り分けないの…?」

舒念は謝炎の顔色を気にしながら怯えた様子で見ながら話し続ける。

「全部…ボクが食べてもいいの?」

謝炎は舒念の言っている意味が分からず、しばらく固まる。しばらくしてからやっと口を開く。

「あぁ、もちろん全部おまえのだ」

謝炎はそれから考え事をする。そして果物の入った水晶のボウルを持ち上げて舒念の膝の上に置く。

「これも全部おまえのだ。全部食べていいぞ。無くなったらまた持ってきてやる」

「本当?」

舒念は肩を縮めている。もうすっかり顔に大きなアザができた理由など忘れていた。頭を上げて感激した様子で、まるで真っ黒な小動物のような目で謝炎のことを見つめる。

「キミってホント良い人なんだね」

「ん?ハハッ…もちろんだ」

謝炎は誇らしげな態度をとっている。なぜか分からないが、舒念に褒められるととても良い気分がした。

この痩せ細ったひ弱な舒念を見ているとどうしてもいじめたくなってくる。どうしてか舒念のことが放っておけず、可愛くてたまらないのだ。

「美味しいか?」

 「うん、美味しいよ」

舒念は小さい口でちょっとずつかじりながら緊張した様子で頷く。

ーーわー、なんて可愛いんだ!

謝炎は堪えきれず舒念の柔らかな茶色の頭の上に手を伸ばす。

ーーアリスみたいだ…あ、でもアリスよりもっとずっと可愛いな、抱きしめたい…

そう思った瞬間、謝炎の体が反射的に動いていた。舒念の洗ったばかりの石鹸の匂いがする痩せた体に飛びつく。ぐっと強く抱きしめて満足そうに舒念の顔にキスをする。

「おまえがちゃんといい子にしてれば、おまえが欲しいものは全部、おれがあげるからな」

「えっと…………」

舒念はシスターのおばあちゃんが”食べ物をくれた人にはちゃんと感謝するように”と言っていたことを思い出す。そして感謝の意を示すように素直に頷いた。

 

その日から舒念は謝家の一員となった。実際には謝烽夫妻に引き取られた養子で、事実上、昔で言うところの金持ちの家の付き人だ。或いは使用人、もう少し年が上で運が良ければ執事だったかもしれない。

もちろん謝炎にとってはもっと簡単なものだ。

舒念は不幸にも捕まってしまった犬のアリスの身代わりなのだ。主な仕事は謝家の御曹司の遊び相手だ。安全に炎お坊ちゃまの退屈な時間を潰す相手をすること。

謝炎の機嫌が良い時は舒念の頭を撫でてご褒美を腕いっぱいに与えた。機嫌を損ねてしまった時には抱き枕を使って舒念のお尻を強く叩いた。舒念のことを床に押さえつけて酷く叱りつけて、舒念が顔をそらしてワアワアと鳴き声を上げたら謝炎はやっと手を離した。

舒念な王子様に会うことはできなかったが、代わりに変わった飼い主を得たのだ。

この飼い主は性格が良いわけではなく、時に横暴で何かあればすぐ暴れ出すこともあった。しかし幸いにも顔を引っ張ること以上の暴力的なことをすることは無かった。

そして年を取った今、謝家の中で舒念の顔を指で引っ張る者は誰一人いない。

 

 

ベッドで寝ていると目覚まし時計が鳴る。舒念はうとうとしながら手を伸ばして目覚ましを止める。そして本能的に自分の顔を撫でる。

幸いにも舒念の頬は腫れていなかった。やはり夢を見ていただけのようだ。

子供の頃、謝炎に花柄の模様ができるまで頬を抓られたため、彼にとっては大きなトラウマになっていた。

舒念はもう三十歳になろうとしている。しかし恥ずかしいことに謝炎の指に対して未だに恐怖心を抱いているのだ。

どうやら今日、あの男がイギリスから帰ってくるということで、条件反射のように子供の頃の夢を見たようだ。

ーー何年振りかな。会わないうちに彼はどう変わったんだろう…

舒念はボーッとしながら服を着てベッドから降りる。

今日は旦那様と奥様が坊ちゃんを迎えに行く予定になっていて、彼は謝炎をお迎えには行けず、会社に出勤するしかなかった。謝家の中ではまだ身分の違いがあるのだ。

舒念が今住んでいる家ですら謝烽夫妻の本家からは離れている。

顔を洗ってスーツに着替える。まだ眠りから覚めやらぬ中、ぼんやりとしながら洗面所から出る。そして階段を途中まで降りたところで下の階から騒がしい物音と話し声が聞こえてきた。

ーーこんな朝早くにロビーでは何を騒いでいるんだろう?

「舒坊ちゃん!謝坊ちゃんが帰って来られましたよ!」

「えっ?」

全く予期していなかったこの事態に脳の処理が追い付かなくなって思わず固まる。そして舒念に向かって飛んできた謎の物体の急襲により、舒念は数歩後退してうつ伏せの状態で床に倒れる。

「小念~~~~~~~~~~~~~~会いたかったぞ~!」

舒念は背筋がゾクゾクとする。なんとか大きく目を開いて飛んできた”物”の正体を確かめようとする。うーん、違う。飛んできた”人”の顔はあまりに近く、はっきりと見える。

「謝炎なの…?」

「当たり前だ、俺に決まってるだろ?」

ーーうぅ…すごく胃が…気持ち悪い……

舒念身体にへばりついた”タコ”を苦笑いしながら引きはがす。

「…空港で迎えを待っていなくていいの?」

「お前に一番に会いたかったんだ。タクシーを待つ時間さえ惜しかった。だから自分でバスに乗ったんだぞ~。それで飛行機も一便早いのに変えたんだが、お前たちに知らせるのをうっかり忘れていた。だって待ち切れるわけないだろ。全部お前に会いたかったからだぞ……小念、俺に会いたかったか?言え、答えろ!」

舒念はまたひどく冷や汗をかき始めた。

謝炎は前に比べて少し背が伸びており、舒念よりも少し背が高くなっていた。

彼は以前よりも背が高くなり、さらにハンサムになって、すっかりと垢抜けた様子で真っ直ぐしっかりと立っている。

謝炎はあと数か月で二十五歳になるというのに依然として舒念に甘えている。

「旦那様も謝炎を見たらきっと喜ぶよ」

「おかしい。お前はなんでちっとも嬉しそうにしないんだ?」

「も、もちろん嬉しいに決まってるじゃないか!」

「そうは見えないな……」

謝炎はまだ口を尖らせている。

舒念はもちろん喜んでいた。しかし嬉しさのあまりどんな顔をして、どんなことを謝炎に言えば良いのか彼には分からなかった。

それに舒念は子供の頃から口下手でもともと大人しい性格だ。大きな声で笑ったり叫んだりするようなタイプではない。

今、舒念の心臓は謝炎にしっかりと握られており、飛び跳ねながら破裂してしまいそうだった。

そんな状態では静かに微笑むくらいに表情を作るのが限界だ。

「小念、お前に話したいことがあるんだ。向こうでな…………」

謝炎は長い間イギリスにおり、中国語を話すことが出来なかった為、やっとこの機会にと饒舌に話し始めた。

座って使用人にお茶を淹れさせる。そして使用人が謝烽夫妻に謝炎の帰宅を知らせるまでの間、舒念のことを掴みながら延々と土産話を語りだした。

謝炎との距離が近すぎた為、舒念は顔が涎でいっぱいになりそうだった。

「…何?」

「バスに乗って帰ってくるときに指を捻ったんだ……」

「えぇ!?」

帰ってきたばかりだというのに、謝炎の暴力的な面が現れる。

ーー今まで何も表情に出さなかったのに、本当は指を怪我してたの!?

舒念は自分を掴む謝炎の腕を怯えた表情で身体を引いて離す。

「何があったの…?財布でも盗まれそうになったの?」

謝炎は細い眉に皺を寄せて、露骨に嫌悪感を表情に浮かべながら歯をむき出しにする。

「俺のことをこっそりと触ってきたんだよ!チェッ、クソ変態が……」

「触ってきた……」

舒念は少しポカーンとする。

「そうだよ。バスの混雑した中で俺の尻をこっそり触ってきたんだ。だからその”女”の指を掴んで力を入れたら骨がパンって鳴ったんだ……そいつは痛すぎて叫びもしなかったよ」

この男の精神力は生まれつきで以前と全く変わっていなかった。

舒念少し苦笑いをしながら話す。

「さすがにそこまでしなくてもいいんじゃない?確かに酷いことをしたけど、その人は女の子なんだから……」

「なんだよ、そいつは”男”だぞ。禿げたスケベジジィだ。小念、お前が同性愛なんて知ってるわけないだろ?」

「え、同……」

舒念は少し揺れて固まる。しかし、しばらくしてなんとか微笑む。

「分かるよ。今どきは別に珍しいことでもないし」

「本当に変態だろ、ゲイなんて大嫌いだ」

謝炎は眉により皺を寄せる。

「男と男だぞ?病気だろ!セックスの時なんか吐き気がするだろ?……悪い…………食欲が無くなった……」

「いいから少しは食べようよ。これ、謝炎のために一か月塩漬けして作ったんだよ」

舒念は繊細な模様の入った皿を謝炎の前に動かして眼鏡を落ちているわけでもないのに指で支える。

「先に食べててくれ。俺は荷物を上に運んでくる」

心の中ではとっくに分かりきっていたのだが、彼の話を直接聞いて確信した。そっと抱いていた幸せな希望はどうやら滑稽で哀れなものであったのだ。

 

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※舒念が”男”を”女”と聞き間違えた理由について

 

中国語で「彼(He)、彼女(She)」にあたる言葉は「他(tā)、她(tā)」で声調(中国語は声のトーンで意味が変わる)も全く一緒で、音では区別がつきません。

なので、痴漢をされたと聞いた時、まさか同性からされたとは思わず、女性からされたのだと最初に思ったのです。

 

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