第2章:飢えた少爷

「小念、まだ終わらないのか?」

「あ、うん……」

舒念は少し狼狽えた様子で目の前の資料を整理している。

「もうすぐだよ……」

彼は絶対に仕事を怠けていたわけではないと誓えるのだが、謝炎の仕事効率から言わせると、舒念の今日の仕事ぶりはスピードと正確性に欠けていた。

「本当に遅いな」

謝炎は面倒くさそうな顔をしながら時計に目をやる。

「もう三十分も待っているんだ!飢え死にするぞ!」

舒念は苦笑いしている。謝炎からすればこんな仕事は取るに足らないのだが、残念ながら全ての人が謝炎のように優秀な頭脳を持っているわけではない。

特に舒念の場合、孤児院で過ごした十四年間は教育を受けていなかった。だからこそ舒念は他の人よりも何倍も時間を使って努力をし、教育の遅れを少しずつ取り戻していったのだ。

しかし、生まれつき特別な才能があるわけでもなく、むしろ人よりも覚えるスピードは遅い部類だ。

謝炎のような若くして各地を旅しながら学位を取った人と同列に扱うこと自体間違っている。

舒念が今、雑談でもして時間を無駄にしようものなら、お腹を空かせたリードン(謝炎)が更に暴れることになる。

弁明の言葉を繕う勇気もなく、ただ一秒でも早く仕事を終えるために齷齪(あくせく)するしかなかった。

「謝炎、先に帰りなよ」

もう何度、仕事を間違えたか分からない。隣には謝炎が両腕を組んで座り、ジロジロと睨むように監視している。そのせいで舒念の動作はカチカチに硬くなってしまい、まるでロボコップのようだった。

「まだ時間が掛かるよ…だからもう待ってなくて大丈夫だよ」

「何?!」

謝炎の顔色が更に悪くなる。

「お前、俺を揶揄っているのか!」

「え?」

舒念は自分に罪はないと確信している。誰も彼に待っていてくれなど頼んでいないのだ。

「先に帰ったほうがいいんじゃない?だってほら、まだこんなに……」

「うるさい!俺はお前と一緒に夕食を食べたいんだ。早くしろ!」

「うん……」

舒念は口を閉じる。どうやら嫌々仕事を続けるしか選択肢は無いようだ。

「全く不器用だな、これじゃあ夜が明けてしまう…」

謝炎は隣でしばらく監督していたのだが、もう我慢が限界を迎える。

「手伝う。全部寄こせ」

 

仕事をしている時の謝炎からは、いつものニヤニヤした表情が無くなる。凛として触れることさえ憚られるような実直さで、細長い端正な眉を軽くねじり、薄い唇を厳粛に一直線にしていて、まさに英気迫る様子だ。

 やはり本気になっている男は最も魅力的である。そんな謝炎が傍にいるせいで舒念は徐々に集中力を切らしてしまい、滅茶苦茶な仕事をしてはその都度、ゴラのような表情の謝炎に平謝りを繰り返していた。

 

 

「小念、お前本当役に立たないな」

家に帰ると外は既に真っ暗になっていた。謝炎は鍋の底のように黒い顔をしている。

「お前は謝家として何年も働いてきたんだろ?なのになんで俺が留学に行った時から全く仕事が上達していない?」

舒念は少し遣り切れなくなる。謝炎の前でもっとマシな態度を取れるようになりたかった。

「もういい。腹が減った。劉(リウ)さんは?なんで誰も夕飯の準備をしてないんだ?!」

「あっ!」

舒念はこの言葉を聞いてやっと、この家にいる唯一の年寄りの使用人が休暇を取っていることを思い出す。

「劉さんは休暇を取って娘を見てるはずだよ……ごめんね、すっかり忘れてて……」

謝炎にギロッと睨み付けられた舒念はとても後ろめたい気持ちになる。

「ごめんなさい……旦那様のところに帰るのはどうかな?あそこの厨房ならすぐに食事も用意できるし……」

謝炎は眉間に皺を寄せる。

「俺はお前が仕事を終わらせるのを長い時間待ったんだ。それなのに挙句、お前は俺を本家に追いやるのか?お前はこの俺が一体誰なのか忘れたのか?お前はマナーってやつがまだ分からないのか?!」

「うっ……」

謝炎が怒り出してしまった時はもう舒念にはどうしようもない。

「車でホテルまで送るよ……」

「俺は疲れているんだ」

謝炎の坊ちゃん気質がすぐに姿を現す。

ネクタイを引っ張りながら機嫌が悪そうにソファーに腰をかける。

「すぐ出前を注文するから……」

「そんな不潔な物、俺は食わない」

舒念はこうしてまた謝炎と会える日を長年待ちわびていたのだが、今は彼の気持ちがよく分からず、以前のように未熟でただ不安そうに立っている。

「じゃあ……もし待てるなら僕がすぐ作るよ」

 今回の提案でようやく謝炎は異論を唱えず、舒念はホッとしている。コートを脱ぐ暇も無く、台所で冷蔵庫を開ける。幸いにもまだ幾つか材料があるので簡単な料理くらいは何とか作れそうだ。

スーツの上からエプロンを着けるのはさすがに少し変だと思ったが、しかしそんなことを気にしている暇などない。

鍋を持って慌ただしく炒め物を作りながら、頻りに時計を気にする。今の彼にとって、謝炎がリビングで腹を立てながら空腹状態で待っていること以上に罪の意識を感じるものはない。

「小念、まだできないのかぁ」

「すぐできるよ。もうちょっとだけ待ってて」

服の袖で汗を拭いながら、皿を取り出して、後は出来上がり次第盛り付けるだけという状態で待っている。

「腹減ったぞ……」

スラっとしたハンサムな若い男が牙を剥き出しにしている。薄気味悪い吸血鬼のような顔をして、背後から身をかがめて舒念に抱きつく。

「小念……」

「すぐ、すぐだから……待ってて」

歯ぎしりしたところで料理がすぐ出来上がるわけでもなく、早めに盛り付けて火の通りが充分でなければきっと謝炎はまた文句を言うに決まっている。

舒念はじっと鍋を見つめている。その間、謝炎は舒念の耳元に息を吹きかけたり、歯でカチカチと音を立てて邪魔している。心の中で焦りを焚きつけるモノの正体がやっと分かった。

「もういい、先に食べてやる」

「えっ?あと……あと一分で出来るから。ちょっと我慢して、うっ…」

耳たぶが突然ガブっと噛みつかれる。

突然のことに舒念は手元がグラついて危うく鍋をひっくり返すところだった。

「本当憎らしい…俺が腹を空かせているっていうのに、お前はまだ飯を食わせてくれない……飯がないなら人を食おう……先にお前から食ってやる」

耳たぶを歯で挟まれて痛痒くなる。しかし謝炎も舒念のことを揶揄う意味は全く無いことは分かっているはずだ。舒念は顔がずっと熱く火照っていて、手の制御もままならない様子だ。 

背中には謝炎の大きくて丈夫な胸がピッタリとくっついている。腰に巻き付けられたその腕はほっそりとしていながらも非常に力強く、よく知った温度がじんわりと厚い布地越しに伝わってくる。舒念は少し眩暈がして呼吸が乱れ始めていく。

最初から最後まで何十秒だろうか、料理を鍋から皿に盛り付けると謝炎は歓の声を上げて、舒念を離して素早く皿を持ち上げる。そして舒念を台所に残して去っていく。

たった数十秒だけの出来事だ。

しかしそれだけで充分だった。

舒念はしばらく立ち尽くした後、また額の汗を拭う。そして鍋に再び油を注いで二皿目の準備に取り掛かる。

「んーっ!美味い~~」

まさに『民は食を以って天と為す(人にとって食は何より重要だ)』である。数分前まで殺気立った顔をしていた男が今は箸を持って目を細めながら顔に笑みを浮かべているのだ。

「やっぱり小念は流石だな、俺の好みを一番分かってる」

舒念が最後の料理を運んで、やっと時間ができたのでジャケットを脱ぐと不幸に見舞われる。スーツのジャケットに煤汚れが付いており、ドライクリーニング出す羽目になってしまったのだ。とりあえず椅子に腰をかけてひと息つく。疲れてきっており食欲もないため、飢えるようにエビの炒め物を口に放り込む謝炎の姿を黙って見つめる。

「小念、これ食えよ。口開けて!」

「え?」

舒念が反射的に口を開くとベーコンを一切れ放り込まれた。

「美味いだろ?」

謝炎はとてもニコニコしている。その表情は完全にペットの犬に餌を与えているものだった。

「うん……」

「夜食はオニスとユリの薬膳スープを作ってくれ」

「え?今夜は……」

「ここに泊まる」

舒念が「うん」と返事をして、少し困った様子で箸を手に取る。緊張しているのか何も掴むことができない。

「長い間小念と一緒に寝ていなかったんだ」

「僕たちはもう大人になったんだよ」

舒念は無理矢理、笑顔を作る。

「後でリビングを片づけるから……」

「必要ない。俺は以前のようにお前を抱きながら寝るんだ」

舒念の鼻先から細かい汗が滲み出る。

「実は僕の使ってるベッドは寝心地が悪いんだ…だから寝言を言うかも……」

「冗談はやめろ」

謝炎はそう言ってテーブルの下から舒念に蹴りを入れる。

「早くシャワーを浴びて、綺麗になったら俺の世話をしろ!」

 

謝炎がお風呂に入っている間に舒念は大急ぎで自分の部屋の物を隅から隅までチェックする。そして普段は宝物のように目立つところに飾ってある謝炎が以前に使っていた様々な物を引き出しに全部まとめて押し込んで鍵をかける。

もしこれを謝炎に見られたら自分が幼い頃からこっそりと謝炎の物をコレクションしていたことがバレてしまい、自分が謝炎に対して抱いている感情が同性愛であると気づかれてしまう。

十数年間ずっと片想いしている謝炎に今後、二度と彼に会えなくなってしまう恐れだってある。

それに謝炎と同じベッドで寝れなくなってしまうのは言うまでもないのだ。

 

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※『民は食を以って天と為す(民以食为天)』についての補足事項

これは中国のことわざで、「人にとって食は何より重要だ」という意味です。

中国は食事を非常に重んじる文化があり、それは挨拶にも表れています。

「元気ですか?(How are you?)」にあたる言葉で「ご飯は食べた?(吃饭了吗?)」という挨拶があり、これは本当に食事をとったのか心配しているから聞いているのではなく、「今日もちゃんとご飯を食べて元気にしてた?」というニュアンスを含みます。

こういった文化からこのことわざも生まれたのではないかと思います。

 

※下記のセリフの表現について

「早くシャワーを浴びて、綺麗になったら俺の世話をしろ!」の原文

”快去把自己洗干净来侍寝啦!”

”侍寝”は日本語にすると「夜伽(よとぎ)」で「一晩中傍で寄り添って相手の面倒を見ること」という意味なのですが、あまり耳馴染みのない言葉なので意訳をして後書きで解説することにしました。

 

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 第1章:出会いと再会

 

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