第3章:明日引っ越して来い
「小念、お前まだケチケチしてるのか」
お風呂から出てきたその男は、ベッドで横になりながら、リモコンでテレビのチャンネルを変えつつ不満げに文句を垂れている。
先ほど食事をした際、謝炎はリビングの家具が何年前から使い続けているのかついに疑い始めていた。あのマホガニーのテーブルには謝炎が以前、ナイフで悪戯して彫った跡が未だに残っていた。それから家の中をざっと一周すると、やはり見覚えがある物がたくさんあった。こうしてこの家にある物の多くは謝炎が留学に行く前と変わっていないということが確認された。
「え?」
舒念は微笑んでいる。
「できると思う?だってこの家は隅から隅まで旦那様たちの考えで全部設(しつら)えらたんだよ」
「おい、頼むよ。一体何年前にデザインされたやつだ?まるで謝家がお前を酷い目に遭わせてるみたいじゃないか。明日にでも人を呼んで新調するか」
「必要ないよ。馴染みのある物の方が使いやすいんだ」
舒念は取り換えるのが惜しかった。謝炎が中国を発った時、舒念はすでに二十三歳になっていたし、落ち着いていて、分別がある人間だ。ところが謝炎を飛行機に見送った後、茫然として一体どうしたらいいのか分からなくなり、家に帰ると食事も睡眠も忘れて、謝炎がこの家に来た時に彼が一度座ったことのあるシングルソファーで一人、ボーッとしながら夜が明けるまで座っていたのだ。
恐らくその時からだろう。なんと大胆不敵にも謝炎のことが好きだと舒念はハッキリと確信したのだ。
「小念、男がそんなにケチケチしてたら、金の使い方も分からなくなって女の子の機嫌も取れなくなるぞ」
舒念はただ笑っている。
「でもまぁ、いいんだ。もともと小念は俺のものだ。だから俺を喜ばせる方法さえ知っていればそれでいい」
そう言い終えると謝炎は手招きをする。
「お利口さん、こっちに来て抱き締めさせてくれ」
全くもって身の毛がよだつ命令に聞こえる。
とはいえ、子供の頃はずっと名犬アリスの身代わりを務めたこともあり、この手の命令にも慣れていた。しかし、今はもう舒念は三十歳を目前にしている大人の男だ。
舒念が従順に謝炎の膝の上に横になろうものなら、全身が硬直してしまうのは火を見るよりも明らかだ。
「良くないよ……」
舒念は苦笑いしている。
「良くない?」
謝炎は眉を吊り上げながら不快感を表情に浮かべている。それを見た舒念は再認識させられる。あと何年経ったとしても、時代の寵児であるこのエリートお坊ちゃまは自分のことを大人の男としては見てくれるつもりはないようだ。
今の舒念が受けている待遇は、せいぜい「三十歳のアリス」か「十二歳のアリス」くらいの違いだ。
苦笑いしながらぎこちない恰好で横になる。今の自分の状況を頑張って想像しても、毛のフワフワした子犬にすぎなかった。いくら主人が親しげに優しく撫でても、そこにはあってはならない考えと反応が出てしまう。
案の定、謝炎はすぐに満足した様子で舒念の頭を胸に抱きかかえる。そしてテレビの画面を見ながら頭を撫でている。
「小念、お前の髪はなんてサラサラなんだ……肌だって……」
謝炎は肌触りの良いものがとても好きなのだ。舒念は小さい頃からこのような『寵愛』を受けていた為、彼に触られた程度では何も感じなくなっていた。額から顎にかけて全体的に数え切れないくらい揉まれていた。こういう理由で以前は舒念の顔が頻繁に腫れていた。
「あぁ、とても気持ちがいい……」
謝炎はすっかりご機嫌になり、興が乗って舒念のパジャマの襟の中に手を入れて首の辺りに悪戯し始める。
前回、こんなにも近距離で触れ合ったのは彼が留学に行く前の七年前だ。
舒念はなんとか努力して堪えようとしているのだが、次第に呼吸が少し不安定になり、耐え切れず顔を上げてそっと謝炎の顔を見てみると彼はテレビに夢中になっている様子だった。
非常に滑らかで優雅な線を引いたような額(ひたい)、その下には細長く真っ直ぐな眉をつけて、人差し指で薄い唇をそっと撫でている。細長い目を凝らしながら微かに細める謝炎の姿は容易に彼に対して邪(よこしま)な考えを抱かせてしまう。
哀れな舒念は謝炎の膝の上に横になって薄い布地を隔てて、下にある力強い筋肉の温もりを感じている。彼の身体にあるかどうかさえ定かではない清潔で温暖な味の香りすらはっきりと感じる。
彼の指が自分の背中を再び勝手気ままに摩ったり揉んだりしてくる。こんなことをあと少しでも続けられようものなら我慢などできないと心配し、その緊張あまり白目を向いてしまう。
心臓の鼓動が余りにも大きくなりすぎて、彼に気づかれないか心配になる。
必死に気持ちを落ち着かせるために自分の注意を他所へ逸らすしかない。可能な限り今の状況を考えないようにする。自分が枕にしているのは謝炎の男性トップモデルに匹敵する長い二本の足だ。何とか頭から湧いてくる邪な考えを抑え込もうと努力する。
謝炎がやっと番組を見終わり、睡魔に襲われる。そしてやっと舒念を触るのをやめて電気を消して横になる。ずっと極度の緊張状態の中、全身全霊で自分の動悸をコントロールしていた舒念はやっとホッとひと息つくことができた。しかしそんなのも束の間、すぐに後ろから抱きしめられて半分は身体の下に力がかかり、あと少しのところで全ての努力が無に帰すところだった。
「小念、明日引っ越して来い」
実にハッキリしている。命令語であって、相談の意志語「~どうだ?」の文字はどこにもない。
「え?でも旦那様たちはここに住めって、僕……」
謝烽夫妻は実際に舒念のことをずっと他人として扱っていた。そうでもしないと謝炎がいつまで経っても成長できず、彼以外の付き人はいらないと言って、使用人を追い出してしまう。
「そんなこと気にするな。俺が引っ越せって言ったんだ。もし聞かれたら、俺の意志だと答えろ」
謝炎は如何なる時でも誇り高く、それでいて自信に満ち溢れている。たとえ誰が相手でも彼の眼中には入らないのだ。
「うん……」
これからまた謝炎と四六時中会えると思うと舒念は興奮のあまり言葉に詰まってしまう。そしてしどろもどろに他人行儀なことを話す。
「もう僕たちは大人になったんだよ……だから本家に戻っても何も手伝ってあげられないよ……」
「別にお前は何もしなくていい。ただ俺に抱かれながら寝ていればいい」
謝炎はこんなことを至って真面目に話している。少しも冗談を言っているような様子ではなく、舒念はその場でただ呆然とする。
舒念が本家から引っ越す前、確かに謝炎は毎晩のように舒念を抱きながら寝ていたのだ。
当時、血の気が盛んな二人の男の子がお互い抱き合っていた。その時点でおかしなことである。
もうこうなったら謝お坊ちゃまは未だに大人に成長できておらず、童心が残ったままなのだと無理にでも解釈するしかない。
そして今に至っては……もう父親にすらなれるほどの二人の大人が未だに抱き合って寝ている……
怪しいか怪しくないかは別にしても、”過ち”が起きる可能性も充分あるのではないだろうか。
とはいえ、舒念から分不相応な考えを持ったことはない。それに謝炎の抱擁は本当に女の子が人形を抱くのと本質が変わらないということも分かっている。ただもし、これから毎日謝炎に抱かれればいつかは触れてしまうかも知れない。二つの……それが怖くて舒念は一晩中寝付けなくなる恐れだってある。
「俺は小念を抱いて寝るのが好きなんだ」
謝炎の広くて丈夫な胸と細長くて力強い腕が舒念を押し潰す勢いだ。
「こうやってお前を抱き締めていないと俺はちゃんと眠れないんだ…あぁ、小念、お前はすごく痩せてるな。抱き締めていると本当に気持ちがいい……」
舒念は戦々恐々としながら謝炎の懐に抱きかかえられたまま微動だにしない。 謝炎の静かな呼吸と鼓動を感じ、すぐにでも気絶してしまいそうな気分だった。
一秒、また一秒とゆっくり時間は進んでいくが、舒念は意外にも気絶することは無かった。ただ、ずっと同じ姿勢のままでいるため、腰が辛くなっていた。この熟睡している人のことを考えると仕方なく舒念はただ固まっているしか無かった。
背中の熱くて重い感覚は、こうして密着していると却(かえ)って現実味がない。
一体どれだけの時間が経ったのだろうか。カーテンから差し込む光が徐々に明るさを増してきたようだ。
どうやら本当に目を開けながら一晩過ごしてしまったようだ。
謝炎は相変わらず執念深く舒念を抱き締め続けている。姿勢を大きく変えることもなく、舒念の忍耐力には目を見張るものがある。
「謝炎?」
小さな声で呼びかけてみる。舒念はもう起きようと思っていた。劉さんはいないので舒念は先に起きて色々と準備をしなくてはならない。
しかし謝炎からの反応は全くない。今の彼は心底安心しきっており穏やかに眠っている。
舒念はそっと謝炎の腕を解こうとしたが、この男はまるで獲物を捕らえる人食い蜘蛛のように手足でしっかりと舒念の身体を締め付けて離さない。
もし物音を立てて起こそうものなら謝炎が不機嫌になってしまうだろう。それを恐れて舒念は息を殺しながら注意深く謝炎のほうに身体を向ける。そして一体どうすれば彼を最も穏やかに目覚めさせることができるか、方法を思案する。
謝炎の呼吸は規則的で落ち着いてる。そして非常に穏やかで安らかな寝顔だ。
尊大な額(ひたい)に幾筋かの髪が垂れ、目が覚めている時と違って心做(こころな)しか弱く見える。
長い睫毛(まつげ)―― 謝炎は本当にこの上なく綺麗な男性だ。唇を少し窄(すぼ)ませて、無邪気で満ち足りているこの角度。
舒念は不意に謝炎を起こしたくないと思い始めた。
このまま静かに自分のことを抱きながら寝ていればいいと思った。長ければ長いほどいい。このままずっと続けばいい。このままずっと起きることなく、そして自分も目を覚ます必要はない。
一生こんな夢を見続けることができたら、どれだけ良いことだろうか。
半身がまるで麻痺しているかのようだった。
自分の目と鼻の先にいる男性をただ静かに見つめてるだけで心臓の鼓動が速くなる。
彼は眠っている。
ーー”それ”はダメだよね…………良いかな…………
舒念は少し震えながらゆっくりと近づいていく。 胸腔を打つ心臓の音がこの静かな部屋に確かに響き渡り、その音で腰が引けてしまいそうだった。
やっとのことで勇気を出して彼の唇に指を伸ばしてそっと撫でる。
そして彼の唇の触れた指を少し震わせながら自分の唇に当てる。
まだ微かに温もりが残っている。謝炎の温度はとても温かい。
舒念はまさか自分がこんな贅沢な時間を過ごせるということが信じられなかった。